初代富山県知事国重正文(山口県出身)が明治16年(1883)から21年(1888)まで居宅としていたものを、若栗村の豪農西田豊二が購入し移築しました。この建物は全国的にみても数少ない楼閣の数寄屋風の建築物で、建築学的に大変貴重な遺構で、歴史的、文化的にも非常に価値の高い建物です。そのたたずまいから「北陸の銀閣寺」とも呼ばれています。
明治31年、西田豊二の離れ庭として造られ、1,530坪の回遊式大庭園でしたが、昭和7年富山市の庭師城川久治により近江八景の趣を取り入れた現在の庭園が完成しました。ゆるやかに曲がりながら流れ、琵琶湖を模した池に注ぐ一筋の曲水の小川、庭に象形の石や座禅石があり、象形の石は仏門に帰依して庭に入る人を見守っています。
黒部宇奈月温泉駅から黒部川方向に徒歩約10分、右側の水田の中に大きな土盛りの土手と木々が見えます。平地に方形の土塁を築いた城を「平城」といいますが、地元では「館の城」「館山」(タッチャマ)とも言ってきた若栗城跡です。 貴族政治が衰退して地方武士団が生まれ、そこの領主が領地の要の場所に館を築いて生活した中世城郭の一般的な形態です。城跡の高い所に天満宮があります。春は桜が咲き誇り、秋のお彼岸には彼岸花が咲き近隣の人々の憩いの場所となっています。
天平18年(746)越中の守大伴家持の命により八座の神をまつる古い神社。その後黒部川の氾濫などにより3体流失。五社大神となり、のち若埜神社となる。江戸後期の大きな絵馬が残っています。
若埜神社拝殿・本殿の天井には武将や草花が色鮮やかに描かれています。宝物殿には多くの古い絵馬が収蔵されています。
神社の大幟は、明治13年(1880)西田豊二が奉納したもので、縦20m、横2.8m、新川木綿18反を用い、一文字2mの「若埜神社」は西田豊二筆です。大幟は慶事の時に揚げられます。最近は2015年、北陸新幹線開通の記念に掲揚されました。
明治のはじめから大正13年(1924)頃まで、秋祭りの10月17日に用いられた花火の筒で、13筒ありました。明治30年(1897)頃金沢から人力車で来村、宿泊して観賞したと伝えられ、踊りもそえられた祭事でした。
山門は、江戸時代末頃の建で入母屋造、上部切妻、下部は寄棟造でバランスがとれています。境内をめぐる中世的な土塁と調和がとれ気品があります。付属土塁は、コの字形で東西81m、南北59m、黒色土で盛られ、高さ3m内外、平地方形館の遺構と思われます。
倒れた柿の木の幹が四カ所で根づき、幹から伸びた四本の枝が幹になり枝を茂らせ、二種類の柿をならせる「寝てなる善念寺の柿」がみられます。
その昔、行いを悔い改めた夫婦が蓮如上人の弟子になり、上人様が植えられた柿の木の育っている若栗に寺を建てた。この寺が今の「ぜんねっさま」(真宗大谷派善念寺)である。約500年も昔のことになるが、この寺の庭に植えられた柿の木が、北を向いて茂り、田が陰になるので、地主が、「申しわけないが、この柿の木ジャマになるので切らせてもらえんもんか。」と頼んだ。寺は、「それほど陰になって、ジャマなら切らっしゃい。」と返事されたので、早速次の日の朝、ノコギリなどを持って行って見ると、柿の木が東を向いていた。「これじゃ、田にも道にもジャマにならんから、切るのをよそう。」と、そのままにしておいた。それから、いつの年か大風が吹いて柿の木が倒れたけれど、そのままにしておいたら五メートルほどの幹が四カ所で根づき、幹から伸びた四本の枝が幹になり枝を茂らせ、二種類の柿をならせるようになった。それから村の人たちは、この柿の木を「寝てなる善念寺の柿」というようになった。
要予約
観光案内を初め、地域の特産品や土産品を販売しています。
大正5年の吊り橋から、たび重なる洪水にあい、昭和12年寺島権蔵氏らの力で全長541m、幅6mの木橋をかけ、昭和42年永久橋に、平成14年に現在の橋となりました。人名の橋名は珍しく、縮尺の橋桁が展示されています。
540mの若栗堤(黒部川左岸堤)に平成元年7月認定された「桜づつみ」です。
黒部川河川敷には野生のグミが群生しており、常願寺川と同じく全国的に珍しいものです。